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 1日に尿管がんのため70歳で亡くなった作詞家の阿久悠さんがヒット曲の多くを手掛けたピンク・レディーの増田惠子(49)が2日、都内で会見を行った。阿久さんが審査員を務めた「スター誕生!」から芸能界入り。「ペッパー警部」「UFO」などヒット曲の大半は阿久さんの作品なだけに、その死にショックを隠せない様子だった。また、作詞家仲間のなかにし礼氏(68)や阿久さんの作品を歌った森田健作(57)らも昭和の巨人をしのんだ。

 「ピンク・レディーの生みの親。すごく支えでした。ありがとうの気持ちを伝えてないし、何も伝えてない」恩師の悲報を聞いたのは1日夕。それから1日たったが、悲しさは癒えることなく、目に涙をため恩師との突然の別れを悔やんだ。

 阿久さんはピンク・レディーのほとんどの楽曲を手掛けた。初めて出会ったのは1976年2月、阿久さんが審査員を務めたテレビ番組「スター誕生!」でのこと。「決戦大会で合格させてもらって。とにかく怖いイメージ。でも、必ず新曲の詞は先生の直筆で届いた」と、阿久さんの優しい人柄をのぞかせ、当時を思い出した。

 お互いが多忙で、レコーディングなどでも会う機会はあまりなかったというが「大人っぽい歌も歌いたいなと思っていたら『マンデー・モナリザ・クラブ』をいただいた。本当に私たちの歌いたかった曲で、何も考えずに歯車が回っていたのかと思っていたけど、私たちのことを思いながら、後ろから歯車を押していてくれたんだなと思った」と感謝しきり。

 「ペッパー警部」「UFO」「S.O.S」などヒット曲は数知れず。「どれが一番というのは選べない」その中でも忘れられない作品もある。「うれしかったのは解散するときの写真集の中に長い文章を寄せてくれて。『長い間、よく頑張った。ピンク・レディーという鳥は羽ばたいた。これからは肩の力を抜いて飛んでいけ』と」と、阿久さんらしい言い回しを思い出した。

 最後に会ったのは05年、ピンク・レディーの再結成のコンサートが終わった後。「都倉先生と食事したのが最後。よかったねと言ってくれた。食事をしたのは2度目だったかも」最後まで長年の思い出が尽きることはなかったが、つらい思いにもけじめをつけ「亡くなったけど、たくさんの曲に魂が残ってると思うと、さみしくない。UFOに乗って(天国へ)行って欲しい」と願い、前を見つめた。

参照元:スポーツ報知

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